北関東の古墳について

群馬には古墳が多い。古墳は3世紀中頃から7世紀に作られた豪族のお墓ですが、豪族1人を弔うために多くの奴隷や庶民が使役させられる光景が目に浮かんで、良い印象がありませんでした。

しかし、「古墳時代という嘘」(Youtube)という動画を見て目からうろこでした。度重なる洪水で荒野だった関東平野を穀倉地帯に変えていく際に出た残土を1か所にまとめ、その水田開拓に貢献した地域のリーダーへの感謝の気持ちから祭壇を兼ねたお墓にしたとも考えられ、死者を通して自然や神に感謝する古代人の純朴なこころのあらわれだったと思いなおしました。

記紀によれば、日本のど真ん中(栃木県佐野市田沼には「どまんなかたぬま」という道の駅があります)を攻略するために大和朝廷は4世紀頃?、大彦命(おおひこのみこと)を派遣しました。その7代後の豪族(ワカタケルの臣?)の前方後円墳が稲荷山古墳です。

そこから出土した鉄剣(稲荷山古墳出土鉄剣、471年/531年?)は国宝に指定されていますが、先日その古墳のてっぺんまで登ってきました(写真上:前方部登り口、下:後円部頂上埋葬部)。

猛暑の中でしたが、古墳の上から関東平野と遠くの山並みを眺めながら、古代からの開発の営みの上に現代社会の繁栄があるということに気づかされ、何かパワーをもらったような心持ちになりました。

稲荷山古墳前方部登り口

稲荷山古墳前方部登り口

稲荷山古墳後円部頂上

稲荷山古墳後円部頂上

この鉄剣が新聞などで大きく取り上げられた翌年に司馬さんは歴史学者の林屋辰三郎さんと対談しています(「この国のはじまりについて」の「歴史の夜咄」)。司馬さんはいつも古代の東アジアの交流の視点から日本のなりたちを話されます。今、嫌韓ムードが日本を暗く覆っていますが、司馬さんの視点をかりて朝鮮(特に百済などの古代朝鮮)へのリスペクトを取り戻したい気分です。

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